2011年09月18日

ロミオ&ジュリエット

だれが知ろう、愛がわれらを導くさきを
愛はばらの色
愛は鳴りやまぬ鐘
愛はわれらを終わりへと
苦い別れへとつれゆくか
華麗なる地獄の門へとつれゆくか
ああ、だれが知ろう、だれが知ろう?
(タニス・リー『影に歌えば』ハヤカワ文庫FTより)


またしても大変大変ご無沙汰しておりました。
ようやく仕事が一段落・・・というか自分の心の中で一段落できまして、久しぶりに観劇してきました。そちらのだらだら語りです。

赤坂ATCでの、ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」。ロミオ山崎君、ジュリエット昆さん、ティボルト上原さん、マーキューシオ石井さん、死のダンサー中島さんのキャストでした。
昨年から今年にかけて宝塚でも上演されたこの作品、宝塚版は観劇していません。ただその折りにはかなり難曲ぞろいだと聞いたような気がしましたが、さすが外部ミュージカル、歌で現実に戻される部分はなく、ひたすら甘く耳障りのよい音楽に思えました。

さて、なんと言っても「ロミオとジュリエット」でございます。この劇場にいる人のほとんどが結末(詳細はともかく最後はちょっとした行き違いで二人とも死んじゃうのよねぐらいのレベル)は知っていると思われる話に、どうやって新しくドラマ性を吹き込むか。それが期待のうちの多くを占める観劇でしたので、その観点からつらつらと。
なるほどと思ったのは以下の4点。


下手をすれば観客を置いていきかねない若さ故の暴走キャラクターロミオとジュリエットというタイトルロールは重視して、通してみれば、なるほどこの「ロミオ&ジュリエット」はひたすら無垢な若い二人が犠牲となって歴代続いてきた憎しみと罪の連鎖を購う構図を描きたかったのかと納得。いえ、最初のうちは、恋に恋する若い主人公の二人に、「愛ってそんなすばらしいだけのものではないだろう」とちょいとイライラしてしまったおばちゃんだったもので。
18歳まではだめ(結婚は16歳で良いけど)と携帯も持たせてもらえないジュリエットの箱入りぶりもともかく、冒頭の見せ場モンタギューとキャピレットの対立に姿を見せない(大抵そうであったとしても)(憎しみの罪に染まっていない)ロミオ、ロザラインに対する執着などはしょって愛にもまだ無垢なロミオの浮き世離れっぷりもなかなかに感じられ。お母様の溺愛はもちろん、ベンボーリオと密かにロミオに恋するマーキューシオにガラス細工のように大切に扱われていたのねーと言う印象。あまあまだなー。
それはさておき、シェイクスピアの作品を読んでいても二人の犠牲と購いというのは大きな主題だと思うんですが、対立のエネルギーとか猥雑さとか他に魅力的な部分も多いので、これをどどんと真ん中に持ってきた演出はかえって新鮮に感じられました。キャストの二人の初々しさがまた何とも言えませんで。
そして、この真ん中を大事にしてくれて罪無き者という描き方の辺り、この演出は確かに宝塚に向いているかもしれないと思いましたです。

死のダンサー。
黒髪、青白い肌、シースルーの黒いシャツ。このビジュアルに凄い既視感。どなたかご存知ありますまいか。
ベジャール作品でどなたかがこれそのままのビジュアルで踊っていても驚きませんが、一応確実なところでは、西洋絵画のファムファタール、或いは死を象徴する作品を思い起こさせるビジュアルだと。
具体的に言えば、ムンクの「マドンナ」とか、モローの「死せる詩人を運ぶケンタウロス」とか、クリムトの諸作品とか。
1幕2幕とも最後はキリストの磔刑そのものの形をとる死は、美しい中性的で静謐な姿で。ほかの誰かではなく犠牲の子羊たるロミオとジュリエットの苦しみに敏感に反応して。
そう、キリストも、原罪を購い犠牲になったのだと、思い起こさせていいただきました。 

ロミオとジュリエットを現代で上演するときは、しばしばクローズアップされるマーキューシオとティボルトですが、この版ではベンボーリオの役割も大きく、モンタギュー側はベンボーリオとマーキューシオ二人で担う感じでしょうか。2幕構成で2幕中盤まででマーキューシオとティボルトが物語から退場してしまう弱さをベンボーリオの青春の追憶で埋めるところは、なるほどと思いました。
いい人なんだけどちょっと鈍感め?という感じのベンボーリオ。この人だけが生き残って大人の世界に入っていくんですね。
マーキューシオの役割は分割されたとしても、この二人に担わせたものは凄いと思ったのは、タイトルロールの無垢さに隠れてしまった感のある愛の惨さ、怖さを充分に味あわせてくれた点です。
この作品では、ロミオとジュリエットが結婚したことは、知れ渡ってしまう。
傷つく(どころか自暴自棄なダメージを負う)のはジュリエットに想いを寄せるティボルト、ロミオに恋するマーキューシオ。
ティボルト!ロミオを殺してジュリエットに告白するなんて、それで受け入れてもらえると本気で思っているの?マーキューシオ、ロミオがあなたに寄せている好意はあなたが心の奥底で求めているものとは違うから!2幕の前半は、そんな事をつぶやいておりました。
かくして、自らその結末を求めたようなマーキューシオとティボルトの死。
だれが知ろう
愛がわれらを導くさきを


若者達から「あんた達のせいだ」と糾弾される大人達ですが。
正直言って一番共感でき、心を添わせたのはこの汚い大人達。
現実に安住し、数々の問題を放置した罪はあれど、そんな彼らも、一瞬美しい至上のものに心奪われるときはあるのですよ。
最後の和解のきっかけになるお母様方の叫びもそうですが、何より、劇中歌として心を鷲掴みにされた乳母とキャピュレット卿のお歌。
今回の観劇で一番の感動ポイントだったかもしれません。
若者達の純粋さに素直に感動するには年を取りすぎているもので。


やっぱり、生舞台はいいな。
当然のことを思いながら劇場を後に出来る幸福。
posted by Mey at 19:06| Comment(0) | 宝塚以外・生観劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月18日

妖精女王の変容

ご無沙汰しておりました。

1月17日、3月20日、9月11日など忘れられない日付の一つに3月11日が加わりました。

私の住んでいる県でも北西部は大きな被害に見舞われましたが、わが住まい、職場がある辺りでは被害がありませんでした。
心配をしてくださった皆様方に御礼申し上げます。

その後は、かなり仕事漬けの毎日が続きまして。
正直言って今もなおしんどい日々なのですが。
「いいかげんにしろー」とか「やめてやるー」とか、言いたいけど言えない状況からの逃避から生まれた妄想物。

タイタニア未来捏造話の2。

相変わらずの自分勝手話です。
かなり長いです。
天と地と」が前提となっております。
よろしければ追記からどうぞ。



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2011年02月20日

彼の目はブルー

現在大阪で公演中のミュージカル「エディット・ピアフ」を2回程観劇しました。 


今回は2度とも下手前方席での観劇となりましたが、やっぱり複数回観る事が出来るなら、後方センターとか、3階席とか、違う角度からも観てみたかったなーと、これは贅沢な呟き。
 以下、記憶力が超いい加減なものが垂れ流すものですので、信用しないでくださいませ。(なら書くな)

 前方席から観ますと、ラファエロ前派の受胎告知っぽい絵(下手に描かれた人物が百合のような花を持っているように見えたので大天使ガブリエルかと思ったんですが違うかな?)が描かれた幕が横長にありまして、あんまり大きい劇場ではないはずなのに、下手と上手の距離感を醸し出してくれておりました。
 で、場面事に、上手にその時代と場所を示す映像が映し出されます。1944年ムーラン・ルージュとか1949年オテル・ウォルドルフ・アストリアとか。この手法を観るたびに某歌劇団の「愛しき人よ」を思い出してしまう私は、相当に齋藤先生のファンでありましょう。
 冒頭に、「1935年ベルヴィル」と来たときには、「わー!」ときてしまいまして。
 安蘭さんの前作も「1935年クリストファーストリート、ニューヨーク」だったなーと。
 本当にこの時代がよく似合う人だ。でも、おんなじざわついてゴミゴミ込みした街設定(画家もバカも集まる)でも、当たり前の事、全然違う。

 演出家の源さんがピアフについて「世界を席巻しつつあるアメリカ文化に対抗するフランスの象徴」というようなことを語っておられましたが、まさしくそういうポジションに立つ女性として、観劇前に「COCO」のココ・シャネルを記憶の縁から引っ張り出していました。「COCO」の舞台を観たのは初演だけで、本当は昨年の再演も観たかったのに、残念。
 ピアフとココ。ジャン・コクトーとの親しい交友などを考えれば、両者も会ったことはあるのかないのか。
 伝説ともなるような後ろ暗い少女期を過ごしてきた彼女たち。彼女たちの成功には、多くの男達の欲望も関わってきたのだろうな。
 とっても、自分勝手で、己の欲するままに行動する人なのに、傍らに心底彼女らを愛して大切に思う人がいるのは何故なんだろう。バリエ氏の甲本さんと、グレフ氏の鈴木さんをみてそう思いましたですよ。
 ピアフとココ、両者を象徴するかのようなそれぞれのポーズも、素敵でした。
 そして、ラスト。散々に打ちのめされた後、自らを肯定する歌。

 ピアフ初見では、似ていると思ったのに、2回目では、やっぱり、全然違った人生(と舞台)の人だったと改めて感じました。
 未だ生きていてこれからの人生に対する強い意志を感じさせるココのラストソングと、すべてが終わったピアフのラストソング。
 わたしは、わたし。
 わたしであるようにしか生きられない。
 後悔しない。
 そこの部分は同じであるかもしれないけど、やっぱり色合いが違う。


 私が、この「エディット・ピアフ」の舞台のエディットを好きになったのは、彼女の下品さゆえだと思いました。
 前半生はともかく、フランスを代表する歌手にまで上り詰めたなら、もう少し取り繕うとかそっちの方に努力しないでいいもんなのかな。
 テオのご両親に会うシーン。
 すっかり弱って、きっとテオのお母様よりは遙かに老けているだろうけれど、口の利き方はまるで幼い子供のようで。
 それでも、ご両親も、テオも、そのままのエディットを受け入れてくれていて。
 もちろん、それまでのすべての人々もそうで。
 うらやましい、と、私は思ってしまったのかな。
 「エディット・ピアフのように生きる」苦しさは、十分に承知しているはずなのに。

 一幕のエディットの美しさを愛します。
 爪を立て、神経質に威嚇する痩せた野良猫。
 自分のあるべき位置を見出した美しさ。(下手前方席で、枯葉を歌うイブ・モンタンの傍らのエディットを堪能できたのは、何よりの僥倖でした)
 愛した者が去っていっても、自分は傷つかない。

 では、二幕のエディットは?
 もしかして、マルセル・セルダンとテオ・サラポを特別な存在にしているのは、ただ単に、エディットがその終わりを自ら見届けた恋では無かったからかもしれない。時間さえあれば、いつかはその恋も自然に終わって、彼女の中に波風もなく納められたのかもしれない。
 それが、できなかったために・・・。
 「僕の人生を君にあげる。」なんと、優しく、なんと残酷な言葉。

 この舞台で、エディットが歌う歌は、娼婦の立場で歌った者が多いように思いました。
 「情婦達の歌」、「アコーディオン弾き」、「ミロール」。私の中では「私の兵隊さん」もそのカテゴリーです。
 何も言わず、夜毎、一夜の恋人として身を差し出す。
 そんな事が、何十年と続いていれば、身も心もボロボロになるのは当たり前で。
 誰か一人の特別を作ってしまったら、更にボロボロになることも当たり前で。

 「エディット・ピアフのように生きたいか?」
己を取り繕わないまま生きて、それだけの傷を負い、なお、後悔しないと歌い上げる。
 もちろん、最初は「真っ平だ」とも「できない」とも思ったんですが。
 正直に言えば、こっそりと、憧れているのかもしれません。


 ファン冥利に尽きる歌の数々でした。
 どれもこれも大好きで、この歌声で、この歌詞で、ぜひともCDを作ってくれないかと思う程に。
 無理矢理、一曲と言ったら「私の兵隊さん」かな。
 「彼の目はブルー。」
 前更新の、愛した者の瞳の色に包まれて余生を過ごしたいという、超オトメなジュスラン卿を思い描いてしまったのは、この歌のせいかもしれませぬ。
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2011年02月15日

空と地と

今更、何を・・・の更新であります。

なんと、なんと、「タイタニア」の未来捏造話。

私の手元にある「タイタニア」一巻の発行は1988年となっております。
今から20年以上も前。
私も若かった。

その頃は、やっぱり「銀河英雄伝説」の亜流ぽいかな、などと失礼なことを思っていたのですよ。
敢えて差異を出そうとする作者様の姿勢はわかっていつつも。

それが20年以上も経って、今更、何を・・・なのは、アニメを拝見してのことであります。

何か、昭和の香りのするアニメでございました。
オープニングを錦織健さんが歌っていらっしゃいました。(ちなみに私は、このOPをアリアバード卿のテーマソングだと思っております。「君(ジュスラン)を守らん。あの宇宙を征け!」)
キャラクター原案が美樹本晴彦さんでございました。
タイタニア五家族が、白・青・赤・茶・緑に色分けされておりました。
アリアバード卿、リディア姫、アルセス伯の髪が、一筋クルんとしておりました。
地味なはずのジュスラン卿が、赤毛でした。
青公爵と赤公爵の公式萌え絵がありました。
金羊(ゴールデンシープ)も、暁の女神(アウストラ)も、タイフーンも、ファイアーバードも、(公爵閣下方の旗艦の名前です)昭和のアニメを見慣れた私には実に格好良く思われました。
青公爵こと羊さんと、赤公爵こと女神様がほとんど毎話、お茶をしていらっしゃいました。

そんなこんなで、兄弟萌え、一族萌えの焼けぼっくいに火をつけられまして、生まれたものが以下であります。
いつもながらに独りよがりで、またどこかで見たようなパターンの話でありますが、・・・よろしかったらどうぞとも言えませぬ。 


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2010年06月24日

出来の悪いポエムを綴りたくなるとき

「箱船2010」を観た。

鳩、翼は折れた、青い水面、人魚、水辺、瞳に映る景色。

思い出す、あの舞台。

演出家の術中にはまったことを自覚しつつ、過去からの物語を紡いでしまう。
まあ、いいか。
そんな邪道な見方も決して頭から否定はされないだろうから。


貴婦人にドルチェヴィータを重ねつつ(「ロマンチカ」の人魚姫は、ディアボロでもドルチェヴィータでもあったと思っている)、でも貴婦人はやはりディアボロの系譜に連なるものだと思った。
想いを歌で語る存在だから。

と、いう訳で出来の悪い中二病のポエム。



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2009年10月09日

自分のためになることしか、けっして行わないものだ

まずはお知らせを一点。
リンク先様に、luka画伯の本家にゃんこ堂様を追加しました。
だいこくさんのbranch様からこちらにいらしていただいたかたには、にゃんこ堂様のイラストの凶悪ともいえるかわいらしさはご存知の筈。もちろんわたくしも大ファンであります。
luka画伯は謙遜していらっしゃいますが、レポートも力作揃い。
宝塚(OGさん達も含めて)への幅広い愛に、いつも感動させていただいております。
更に、もう一つ、気色の悪いことを告白させていただければ、私はluka画伯の西の方らしい「ありがとう」(ちょっと語尾が上がる感じ)が大好きでございます。
どうなるかもわからぬ我がブログでありますが、今後ともよろしくお願いいたします。


梅田で「AIDA」を観劇。

東京での私の観劇は9月の5日で早々と終わっていたのだが、その時点での「AIDA」と、梅田の「AIDA」は違っていた。
当たり前の事ではある。
あれから一月近く経っているのだ。

孤高の王女はもういなかった。
うっすらと想像していたとおり、人くさく、激情に駆られ、それでも最後に静謐ともいえる美しさを持つ女性を、安蘭けいさんは演じていた。

周囲では、登場人物達がそれぞれの人生を生きていた。

ケペル。
私は最初、ケペルがメレルカで、メレルカがケペルかと思っていた。
宝塚的序列に従えば、目立つ方がケペルだ。
おお、ちゃんとケペルがケペルとして存在感を主張している。
1幕ラスト、階段上の兵士達と困惑の視線を交わし合うケペル。
そして、「人は忘れる」。
今回「王家に捧ぐ歌」ではおなじみだったおちゃらけソングは、「有名人だ」を除いてすべて差し替えられた。
シリアスになった「人は忘れる」で浮き彫りになるケペルとメレルカの懸念。そしてラダメスへの期待。
ファラオ暗殺後のラダメスへの詰め寄り方。しぃケペルの印象が強かったけど、こういうのもありだと。

アモナスロ。
全く娘のことを思っていない非情な王では、もちろん無かった。
あの佯狂の時の優しい声と表情は何なんだろう。
そして、娘であるアイーダがそれを穏やかな面持ちで見つめているというのは。
アモナスロは、少なくとも、娘の前では、あのような男だったのか。
「縁を切ると言った」かすかにうかがえる動揺。
「三度の銅鑼」の高揚。
・・・エチオピアの廃墟。

ウバルド。
リアルに、こういう兄さんているような気がする。
(私は妹しかいないのだが)

エチオピアの歌手。
恨みというよりも呆然と憧れさえ込めて「光ってやがる」と。
恍惚と「神に許されている」と。
そしてエチオピアの廃墟の中でただ一人の男として消えていく。
彼の生きた道筋を思った。

エジプトの神官。
「恵まれた暮らしを楽しもう」。
これは、私だ。
自分が使えるだけの時間と金でもって、自分に心地よい時を購おうという私自身だ。

アムネリス。
今回、ただ一つ「王家」とは別物とはっきり自覚していても、蘇ってしまうフレーズがあった。
「ラーダメース。あなたの心がわからーなーいー!」という、だんちゃんの力強さだ。
歌の技術はともかくとして、ANZAさんのアムネリス様は、新人公演のウメちゃんの系譜に繋がるのかもしれない。
アイーダに対するそこはかとない気後れを感じたのだ。
そういえば、ANZAアムネリスは、アイーダを殴らなかった。
(5回目の観劇にして、初めて気が付いた)
でも、そんな周りから庇護された王女という存在であったアムネリス様が、たった一人自分の足で立って行こうとする姿が・・・。

みんな、すべて、自分の生き方を生きているんだ。

なんと愚かな。

でも、そうだよね。

愚かで、懸命な、人達。
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2009年10月01日

男がピカピカの気障でいられた

私は「比べる」と「表」が大好きだ。
こんな所までわざわざのぞきに来てくださる方には言うまでもないことだろうが。

今、東京宝塚劇場の舞台でも懐かしのジュリーの曲が聴けるわけだが、私は今日のタイトルの歌も好きだった。
「ボギー、あんたの時代はよかった」。
おお、折しも今日は宙組さんの「カサブランカ」の集合日ではないか。
ボギーことハンフリー・ボガート。1899年生まれ。1957年没。
「男がピカピカの気障でいられた」時代を20世紀の前半と取ったら広すぎるだろうか。

で、こんな表を作ってみた。


役名ジョエルジェレミードンリコアンソニーレイモンドダグジョイ
年代19291934192719471925193819481917
年齢-21274624312625
生年-1913190019011901190719221892
1939年齢-26393838321747


安蘭けいファンには説明の必要もないだろうが、いちおう。
ちなみに年代は舞台の年代設定。ほぼ確定は青字。私の推測は黒字。
年齢は、もちろんすべて推定年齢。
・ジョエル(ジョエル・エヴァンズ)「ICAROS」
 ただし、やはりイカロスとジョエルは違うと思うので年齢を推定することはやめた。1929年は確定。
・ジェレミー(ジェレミー・メスヴィン)「凍てついた明日」
 1934年は物語のラスト。この時21才だったというよりボニーとクライドが出会った時1930年に17才だったイメージ。ああ、このお芝居、ラストについては5月23日とは出てきても1934年とは言っていなかったかも。
・ドン(ドン・ロックウッド)「雨に唄えば」
 トーキー「ジャズシンガー」が公開された年1927年。ドンって、若いような老けてるような・・・。
・リコ(エンリコ・カステッリ)「コパカバーナ」
 第二次世界対戦終了直後。なら1946年としたいところだが、何かこだわりがあって1947年と私は思いたかったらしい。理由は忘れてしまった。
・アンソニー(アンソニー・ランドルフ)「愛するには短すぎる」
 キュナードラインのモーリタニア号最後の栄光の時代という事で。
・レイモンド(レイモンド・ウッドロウ)「ヘイズ・コード」
 クレイドルウィルロック事件の後、メイエルホリドが逮捕される前。31歳より若い気もするんだけど・・・。
・ダグ(ダゴベール)「シークレット・ハンター」
 1940年代カリブってなってるんだよな。戦争中ではないと思う。
・ジョイ(ジョイ・ビー)「My dear New Orleans」
 1917年は確定。で10年前があのくらいで、11年後があのくらいだとして推定25歳。

作ってみたら、非常に楽しかった。
ドンとリコとアンソニーはほぼ同い年くらいか。
そして、映画やら舞台やら芸能関係者と、犯罪者がほとんどなのにも気付く。

例えば第二次世界大戦が始まった1939年を妄想してみる。
まだボニーとクライドの死から5年しか経っていないジェレミーの傷は少しは癒えていたのだろうか。刑務所暮らしだったんだろうか。
ドンは、どういう映画に出ていたんだろう。アンソニー・ランドルフ脚本、レイモンド・ウッドロウ監督、主題歌ジョイ・ビーのか?
リコはギラギラとのし上がっていく真っ最中だったんだろうなー。
17歳のダグ。きっと絵に描いたような野良猫ぶり。

宝塚の舞台は20世紀前半のアメリカを舞台にした作品が多い。
だから舞台歴が長いジェンヌさんはこういうお遊びが出来る人も多いだろうけど。
安蘭けいは「日本物」とか「ベルばら」とかよく言われているが、この時代の空気(あくまでも「宝塚的な時代の空気」)が似合っていた人だと思う。


ようやく語れるようになってきたか。
posted by Mey at 22:17| Comment(2) | タカラヅカ・その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月24日

大地母神と青年神

初見前に公演プログラムを斜め読みしてびっくりした。

アイーダ、ラダメス、アムネリスの鼎談のところで、伊礼さんが自分の考えたアイーダとラダメスとの出会いという事で「兵士達に襲われて危機一髪の所を助けた」というようなことを発言していたからだ。非常にありがちなこの設定、実を言えば私も「王家に捧ぐ歌」公演の時に考えていた。
更に実を言えば、完全にブログに移る前のちょっとの期間、「Africa」という題でネット上にさらしていた。全10話くらいを予定していた割に2話までで止まってしまって無様だったあれだ。
更に更に実を言えば、その公演妄想話では兵士達の暴行は未遂では終わらなかった。既遂後にラダメスはアイーダを助けた。ということになっていた。

「王家に捧ぐ歌」は夢夢しさが売りの宝塚の舞台では例外的に、とても生々しく暴力が書かれていた話だと思う。(今外部公演を観ると、フィナーレとかメッセージの扱い方にやはり宝塚だなーと思う部分も多いのだが)
星組の中でも歌唱力に優れた娘役さん達が代わる代わるに訴える「私の父は手足がちぎれるまで・・・」「私の母は兵士達に辱められ」「目をくりぬかれ」「兄弟みな串刺しに」にはぞくぞくしたし、戦いの場面のスローモーションで演じられる虐殺の所なども通常の宝塚の舞台からはかなり逸脱していた。
例え王女であっても落城の折の混乱と興奮からは逃れられないことは、ギリシャ神話のカッサンドラーの運命からも明らかだ。
加えてアイーダが示す暴力的なものに対する怯えは、その時の心の傷故でなかろうか、とその頃の私は思っていたのだ。
そんな(自分の妄想付きの)アイーダに対して言うわたるラダメスの「あなたは汚れ無き王女だ」発言がたまらなく好きだった。
そして、「月の満ちる頃」のラダメスとアイーダの色っぽさ加減はそういう背景があったとしても不思議はないと思ったし、わたるラダメスにはズタズタに傷ついたアイーダをすっぽりと抱きしめ癒すだけの包容力があったと思う。それが牢獄の場では、アイーダによって抱き留められ癒される。その反転する関係が大好きだった。

何故にこのような妄想系の昔話を長々としたかというと、不思議だったんだ。
「(舞台上では意識したことはないのだが)女同士でやった時はあんなにエロかったアイーダとラダメスなのに、男女でやっているはずの今回はどうしてエロさを微塵も感じないのだろう。」

私は、伊礼ラダメスにはアイーダが女神に思えたからだと、思っている。

プロローグのアイーダとラダメスの登場シーンが好きだ。
白いドレスに身を包んだアイーダの後ろをラダメスが歩み、背後からそっと抱きしめる。
命を慈しむ大地母神の傍らの若き青年神のようだと思った。

エジプトの正義を信じて戦ってきたはずのラダメスに訪れた転機。
谷間にエチオピア軍を誘き寄せて戦った時、ほとんど無傷だった大劇場版、足を刺された中日公演版とも違って、彼は脇腹を刺される。ダメージははっきりと描かれており、戦いの最中のあの傷は死すら垣間見えたほどで、その時彼には何かがおりてきたのではないかと妄想した。それこそが「光はなかった」から始まる歌ではなかったかと。だから「戦場でしか学べなかった。」とケペルとメレルカが歌う一方でラダメスが叫ぶのは「勝利の意味を」ではなく「愛している」なのだと。

二幕の告白のところでもラダメスはアイーダにひざまずいて言う。「愛している」と。

とどめは、ラストの牢獄だ。
「そうか、ラダメスは女神の託宣だと思ったからこそ、深く考えもせずに国を捨ててただの男になるとか言っちゃったんだ。それが祖国エジプトにとってどれほどの裏切り行為か考えもせず。そりゃあ、絶望に打ち拉がれるのもわかる・・・」などと、ラダメスには申し訳のないことを思ってしまったのだが。
それは考えすぎだとしても、アイーダ(女神)が来てくれて、ラダメスは心底救われたのだと思う。
わたるラダメスの「もう、ここから出られない」は痛切な切羽詰まったものを感じたけれど、伊礼ラダメスにはどこか安堵を感じた。
アイーダが醸し出す包容力も何かが違った。人の身の暖かさ・母性と、すべてを吹っ切った聖性か。

9月5日の17時公演はファンクラブ貸切だった。
それまで3回観ていた私には、衝撃のラストだった。
手にキスのとこ、口づけになってるぞ!!おい!!

ついついバカな報告をした相手先様から、その後の公演では以前と同じように手にキスに戻っていると教えてもらった。
そうだ、私の女神様理論の要は、ここの手にキスなんだ。
変えてもらっては困る。


初めて「AIDA」のチラシを見た時にはこういうアイーダとラダメスの関係になるとは思わなかった。
大枠は変わっていないのに、ほんのちょっとずつ台詞を変え、演出を変え、演技を変えるだけで、全く違った話になるんだ。
でも、「王家」とは違う意味で、同じくらい好きだ。それぞれのラダメスとアイーダ。


しかし、伊礼ラダメス、最初の「エジプトは領地を広げてる」はヅカ以外の舞台で聞くと思わずぷぷぷと吹きたくなる・・・のは抑えがたいのだが。
posted by Mey at 00:32| Comment(2) | 宝塚以外・生観劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月23日

ナイルの流れのように

初見の後、かなり興奮していたと思う。

見たかったものを見ることができた。

四十数年生きてきても、希なことではある。


「アイーダ」が主役の舞台が観たかったんだ。

もちろん安蘭けいの大ファンである私だからそう思うのだろう。
そのとおりだ。
ただ、木村先生がオペラ版から「王家」を作るときに行った改変を考えるにつけ、アイーダが真ん中でヒロインの舞台が観たかったんだ。

「王家」ではラダメスが主役だ。そして主演娘役さんが演じるのはアムネリス。オペラのタイトルロールたるヒロインは二番手男役。
宝塚では定番がこよなく愛され大切にされるが故に、時としてイレギュラーな公演こそが観客を魅了する大きなパワーにあふれることもある。
常々そんなことを思っているのだが、それを実感させてくれた公演だった。

このとき木村先生が行った改変の目玉(と私が思っているもの)は二つ。
オペラ版ではアイーダが実はエチオピアの王女であるとはエジプト側の人々は知らない。ラダメスも知らないまま恋に落ちる。「王家」ではみんな知っている。
もう一つ、オペラ版ではアイーダとラダメスの恋故に知られた秘密が、その後のエチオピアとエジプトの情勢に与えた影響は表だって舞台の上に出てこない。エチオピアは破れたがアイーダは逃れたという事がアムネリスの口から聞かれるのみだ。それに対して「王家」ではどうだ?ファラオは暗殺され、実行犯達は自決。エチオピアは殲滅。おそらく男達のほとんどは「みんな死んでしまった」ことだろう。それが舞台上で繰り広げられる。ラダメスとアイーダ、「ただの男と女」として生きたいという結果が、これだ。
後者は、舞台を作る上で9.11事件が根底にあると公言している木村先生のことだから、それと重ね合わせたものが描きたかったという事もあるだろう。
ただ、アイーダをオスカルに例えていた木村先生のこと、アイーダにヒロイン属性(この場合は罪無くして運命に翻弄される薄幸の人的な)を違うものに振り替えようという意図もあったように感じた。
ヒロイン属性、とりわけ高貴な王女属性の減少という意味では、エチオピアの王女と知られている事もそうだ。王女という肩書きなどもはや何の意味も持たない。ただの囚人だ。彼女は心の中で「自分は実はエチオピアの王女なのだ」と自分を慰めることも出来ない。エジプトの女官達に苛まれ、喘ぎ声を上げるアイーダはいくら「戦いは新たな、戦いを生むだけ」と歌おうと、誇り高い王女には思えなかった。彼女の誇りは叩きのめされていると、その残された最後の砦が「戦いは新たな戦いを生むだけ」なんだろうと。
ヒロイン属性は、アムネリスに向けられる。単なるおいしい敵役から、観客が十分に感情移入出来る女性、物語を通じて大きく成長を遂げる女性、最後のメッセージを高々と宣言する高貴な女性へと。
かくして、ラダメスを中心にして生まれたこのトライアングル、絶妙だったと思う。

でも、同時に思ったんだ。
この改変、アイーダが主役である場合もその人物像をふくらませるのに絶好じゃないか。安蘭けいという人は、そうした綺麗事ではすまない背景を持った人を演じる時に、強く輝く人ではないか。

「王家」で一番引っかかったのは、エチオピアの廃墟の場面だ。
「みんなあなたのせいよ」って、アイーダさん、あなたも一役買ってますが。
「人は自分のためになることしか、決して行いはしない」→「だから私は私自身のために生きる」→「戦いは新たな戦いを生むだけ」・・・わからない。
省略された部分はきっとこうだろうと色々妄想はしてみたが、やはりどう考えても説明不足だったのではあるまいか。

それが、アイーダが宝塚的束縛から解放されてヒロイン属性を取り戻したこと、幾つかの場面変更、小さな印象の違いが積み重なって、彼女が為してしまった罪が、不思議と引っかかり無く入ってきたんだ。

一幕を通して感じる、彼女の諦念。
アムネリスに欺かれ内心を明かしてしまった後、ラダメスの無事を告げられても喜べない。「あなたの心の内はわかりました。」 アムネリスに知られてしまったという事がどれほど絶望的なことかわかっているから。
白タオルという凶悪な武器がないからか、女官達にいじめられても余り床は這わない。絞り出す歌声は「戦いは」ではなく「愛すれば愛するほど」。
一幕ラスト、自分の想いを具体化してくれたラダメスにむける顔と、またしても繰り返される「愛すれば愛するほど」。
二幕で「愛している」とひざまずくラダメスを一回受け入れた後ですら「私はそれを責めません」という表情の静けさ。
アモナスロ王とウバルドには「王家」のような肉親の愛情をほとんど感じない。
また、カマンテとサウフェがいない部分をエチオピアの女性達が担っているので、いっそう孤立感が痛々しい。

「戦いは新たな戦いを生むだけ」を「この世に平和を」という形にして示してくれたラダメス。
エジプトだ、エチオピアだ、将軍だ、王女だという縛りを捨て「ただの男に過ぎない」と言ってくれたラダメス。
ラダメスの「ただの男」「国を捨てる」はよくその意味をわかっていなかったのではないかとも思えるのだが、アイーダは重みを知った上での決断であったことは確かだ。
そして、浅はかな彼女の行為を、浅はかだと思いつつ、共感する。
押し殺して、諦めようとして、さんざん心揺さぶられてきたところに、何よりも望むものを差し出されて、どうして払いのけることが出来ようか。

その先にあったものは、故郷エチオピアの殲滅とラダメスの虜囚。
訥々と歌う彼女。「私は愛するのをやめない。」
彼女の表情に、何故か納得できてしまったんだ。


アムネリスの最後の宣言は、アムネリスがラダメスを愛したことがこういう形に結びついたのだと思った。
そして「私は愛するのをやめない」。
結局は、人対人の結びつきこそが、平和の礎になるのだと。
そう思ったからこそ、不戦の宣言に「王家」の時のような強さではなく、脆弱さを感じ取った。
思えば、プロローグ、アムネリスもまたさまよえる人々の中で歌っていた。
失われた時は、二度と戻らない
ただ悲しみの記憶だけが、歌声となって、響き渡る、繰り返し


新しいキャストで、新しい演出で、初めて聞くかのように歌詞が自分の中に染みこむ。
本当に悲しい歌だ。

繰り返し繰り返し
喜びと苦しみと
愛と憎しみと
戦いと平和と
それが人の世であることは確かだ。

かく偉そうに言いつつ私は、戦いの悲惨さも、人を殺したいと言うほどの憎しみも、実際のものとして知らない。
ただ、懸命に、生きて、愛して、死んでいったアイーダという女性に心を添わせることが出来た時間を持てたことに、心底興奮した。興奮しすぎて首から肩がガチガチになったという、オチにもならないオチ付きで。
posted by Mey at 20:31| Comment(0) | 宝塚以外・生観劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月20日

モスコドンキー・・・という名のカクテルはない

唐突に始めてみる。


宝塚歌劇雪組さんの「ロシアン・ブルー」「RIO DE BRAVO!!」を観た。

観劇後にbranchのだいこくさんとお話する機会があったので開口一番聞いてみた。
「ヘイズとこれってつながってません?」と。これとはお芝居、ロシアンブルーの方だ。
だいこくさんは、当然といった様子でうなずかれた。「そうですよ。」と。「だからあれを書いたんです。」と。あれとはbranchの中で掲載された「Kosyuka of Witch」のことだ。私は「まだご覧になっていない方は、お読みにならないで欲しい。」とのご警告をうけて8月中にお書きになったというあれを読んでいなかった。
帰宅してから「Kosyuka of Witch」を読んで、私の言いたかったことがすべて語り尽くされていると思った。

そういうことだ。
(ただし私も「まだご覧になっていない方は、お読みにならないで欲しい。」)


オーソン・ウェルズ演出のクレイドル・ウィル・ロック事件が起きたのが1937年。メイエルホリド劇場が閉鎖されたのが1938年1月。メイエルホリドが逮捕されたのが1939年。粛正されたのが1940年。ならば、「ロシアン」が1937年なのに対して、「メイエルホリド劇場が閉鎖され逮捕は時間の問題」という「ヘイズ」は1938年頃が舞台か。


「ヘイズ」と「ロシアン」は、スクリューボールコメディシリーズ、姉妹編といってもいい関係だと思う。
似ているとかではない。
大野拓史のスクリューボールコメディには、以下は必要な要素なのだろう。
・譲れない自分を持つ者どおしの諍い、反目
・なのに男に芽生える今までの自分でいいかという疑念
・それを表す、「夕暮れ」「黄昏」の歌
・タップの腕(足)比べ
・反目しているはずの二人を恋へと導くのは「催眠術」「惚れ薬」という怪しい道具立て
・「・・・。いちおう。」「・・・。薬飲んじゃったから。」付け加えられる言葉
・キーワードはキス
・途中のドタバタシーン
・大野舞台にしては例外的に植物の装飾は少ない
・でもやっぱり不必要に思われるほどの過剰な緑、ホテルの中庭、公園
・現れる大きな敵
・敵との戦いの前の歌、「悔恨」「途切れた糸」

こうした「大野スクリューボールコメディ」にははずせないものを含んでいつつ、大劇場作品としてブラッシュアップされている。
物語の要素・歴史的背景の詰め込みすぎ、時として番手を越えてしまう登場人物関係、女性の目から見ても「かわいい・・・」と悶えたくなる娘役さんたちの扱い方、ベテラン陣・専科の方たちの重用は「やっぱり大野先生らしい」と言うところか。

と、いいつつ「大野スクリューボールコメディ」の私にとってのキモは、主役への宛書きにつきるようだ。
安蘭けいにレイモンド・ウッドロウ。
水夏希にアルバート・ウィスラー。
何とも絶妙なスクリューボール加減のこの妙。
posted by Mey at 21:32| Comment(0) | タカラヅカ・生観劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする